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ちょっと長めの独り言

小林昌平「その悩み、哲学者がすでに答えを出しています」感想(産休日記27日目)

だ〜いぶ前にKindleのセールで買った気がする。うんうん、面白かった。社会学系好きな人は特に楽しめると思います。

以下印象に残ったところまとめ。

・「将来が不安」に対してアリストテレス。「将来の目的や計画を一旦忘れ、今この瞬間やることに集中せよ」←現代の自己啓発本っぽい。現代で十分通用しそう。

無欲にプロセスの作業を楽しむ、手抜きせずに一生懸命やる、が大事。←オードリー若林も絶望から救済されるには没入が必要、って言ってた気がする。それに近い?

・「お金がほしい」に対してマックス・ウェーバー(1864〜1920)。マルクス歴史観に対抗した人。カトリックよりプロテスタントが裕福なのは、カトリックは免罪符を買えば救われるため。プロテスタントカルヴァン派は「予定説」(救われる人は決まっている)であり、自分が救われる予定なのか不安になり、暇さえあれば天職にいそしむようになった。結果として裕福になった。ので、ウェーバー的には勤勉になる動機をお金以外に見つける、自分版の予定説を見つければいいよということ。(これはおそらく作者の解釈)

・「やりたいことはあるが行動にうつせない」に対してデカルト(1596〜1650)。すべての学問を制覇したうえでフィールドワークを行い、「我思う故に我あり」にたどり着いた男。「困難は分割せよ」。人生でどうしてもやりたいことを10年、1年、月、日で分割する。さらに数時間、数分、電車待ちの時間に落とし込む。←現代の自己啓発本で十分通用しそうな話だな…

・「会社を辞めたい」に対してドゥルーズ。(1925〜1995)「リゾーム」の人。橘玲「読まなくていい本の読書案内」で「複雑系でよくない?」って言われてた人。

居場所はどこでもよく、まず精神的な逃走。会社に在席したままでいい。重要ではないが急ぎの「雑務」でスケジュールを埋め、「自分は忙しい」と悦に入ることのないように。業務の合間に自分の好きなこと、自分にとって重要なことをやってしまう。

・「緊張する」に対してブッダ(紀元前500年ごろ)。過去の記憶にも未来への不安も持たず、「今ここ」に集中する。ちょっとアリストテレスっぽい。ブッダ的には全ては過ぎ去る「無常」のものだから、という整理。

仏教は実践も重視してて、瞑想もいい。瞑想は自分を客観視する。「緊張している人」から「緊張している人を観察する人」になる。

・「顔がブサイク」に対してサルトル(1905〜1980)。レヴィ・ストロースに叩かれてた人。ブサイクだけどモテたらしい。実存は本質に先立つ。とかげは属性(本質)を持つとかげだが、人間には本質、その人の先天的な人生の意味や目的が存在しない=実存が本質に先立つ。個人的にはこの人の思想は人間を特別視しすぎだと思う。

サルトルの人生は「自分のあり方を自由に選び、選んだ中で責任を果たしていく」という実存主義哲学を体現するものであり、小説家、劇作家、ジャーナリストとして活動した。そのエネルギー源は外見的コンプレックスだった。サルトルは背が小さく斜視で、美少女に告白しては振られていた。ブサイクであっても、正しい意志と努力によって、知性によるセクシーさ、トレーニングによる魅力的な肉体を手に入れることができる。実際サルトルは美人のボーヴォワールと内縁関係であり、晩年も多くの愛人に恵まれていた。サルトルはブサイクだけどモテるインテリプロジェクトに成功した。

ドゥルーズは、後進の思想家は多才のスーパースターサルトルに内心憧れていたと述べたらしいんですけど、それってやっぱりレヴィ・ストロースとのBLみを感じてしまうんですよね。

・「思い出したくない過去をフラッシュバックする」に対してニーチェ(1844〜1900)。幸せな体験もつらい体験も円環でつながれめぐりめぐっている。永劫回帰ニーチェ的には振れ幅の大きい人生を愛し、楽しめの思想。運命愛。いや実践むずくない?

あとがきでニーチェ自身が死ぬまでの10年間発狂してしまったことに触れられており、やっぱりこの運命愛には無理があるのではないかと思わざるを得ない…。

・「自分を他人と比べて落ち込む」に対してチクセントミハイ(1934〜)。初対面の人と名刺を出し合ってら会社名で自分が上とか、友人のパートナーと自分のパートナーを比較してしまうこと、ある。あるある。日本は「である(ステータス)」を重要視しがちだが、「する」を重視する社会では、経歴とか所属はどうでもいい。課題に対して自分の力を出し切れるかが全て。フロー体験。作業に没頭するフロー体験の間は時間を忘れ、のめり込みから静かな高揚感と幸福を味わう。これも現代の自己啓発本っぽい。フロー体験の間は自分の存在を忘れられる、没我、エクスタシーの状態にある。

補足でラッセル「幸福論」にも言及されており、自分が○○であるではなく、ひたすら興味のある対象に関わって、○○することにエネルギーを向けることで幸福を感じられるようになる。「人は皆、周到な努力によって幸福になれる」

・「他人から認められたい」に対してラカン(1901〜1981)。大文字の他者とは、実際は存在しないけど私達がつい考えてしまう抽象的他者、「神様」みたいなもの。自分の中に内面化した大文字の他者の承認にたえるものを、トライアンドエラーを繰り返しやり遂げたとき、現実の他者の承認は勝手についてくる。

・「常になんか不安」に対してホッブズ(1588〜1679)。社会契約説。リヴァイアサン。イギリス。

人間とは本来そういうもの。根源の感情は「恐怖」であり、その状態を「自然状態」という。死ぬまで怖がり続けるのはつらいから、ある一人を主権者とし、その人に権限を明け渡し、身の安全を保障してもらう。それが社会契約説。

油断も慢心もしない、敵は作らず、脇が甘くなっていないか常に確認する。臆病であることが生きるための条件である。不安で頭がいっぱいなのはデフォルトなので受け入れるしかない。

・「友人から下に見られている気がする」に対してアドラー(1870〜1937)。「劣等感」に注目。「嫌われる勇気」の人。

下に見られる、バカにされる、いじめ問題などにも。課題の分離。部下の机が汚い、は部下の課題であって、上司が踏み込むことではない。デスクを片付けるかは部下が判断すべきであり、上司がそれを気にしても仕方がない。

あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に踏み込むこと、自分の課題に踏み込まれることでおきる。どこまでが自分の課題か線引きが重要。そのうえで他者の課題には立ち入らず、自分の課題には立ち入らせない。

「下に見られたくない」というのは自分の課題だが、「自分のことを下に見るか」は他人の課題。ならば下に見るやつは勝手に見させておけばいい。下に見られる事自体が問題なのではなく、それが自分の課題であるかのように錯覚してしまうのが問題。下に見てくる人は、コンプレックスを抱えているのか不明だが、それはその人の課題。自分は自分で、下に見られることを自分の課題として内面化させてしまっていればそれ自体が自分の課題。つまり、相手と自分は関係がない。その人にはその人の課題、自分には自分の課題があるだけ。

自分に価値があると思うときにだけ、対人関係の中に入れる。なので内面の充実は必要。課題の分離とは、「自分ができることは努力すべきだが、どうにもできないことをどうにかしようとしない」ということ。

それでも他人の課題と自分の課題を引き剥がせないなら、環境を変える。シェルターに逃げ込んで、生き延びる。

岡本太郎は「大切なのは他人に対してプライドを持つことではなく、自分に対してプライドを持つこと」と述べている。

・「上司が嫌い」に対してスピノザ(1632〜1677)。自然そのものが神って言って協会から破門。嫌な上司に対して、「なんであんな風なんだろう」と思うかもしれないが、誰も自分で自分を変えることはできない。全ては彼を取り巻く環境で決まっている。誰かを恨んだり愚痴ったりするのは相手の行動を変えれると思っているから。でも人間は変わらない。再びあの上司は嫌なことを言うだろう。でも変わらないと思えば楽になれる。

マキャヴェリスピノザと同様の考え方だが、残りの半分は運命が私達に任せていると考えた。ここぞというときは運命に身を任せず、自らの意志を発揮せよ。人事を尽くして天命を待つ、ってやつ?

・「家族が嫌い」に対してハンナ・アーレント(1906〜1975)。ハイデガーと恋仲。これ、サルトルと誤解してた。ボーヴォワールとごっちゃになってたのね。

アーレントは「ゆるし」を説いたが、アイヒマンホロコーストを指揮したドイツ人)の裁判で、ゆるしは与えられない、死刑に値すると発言した。アーレントナチスユダヤに対してやった、そのやり返しとして「復讐」を採用してしまった。しかし、「許そう」と考えることは大事であり、「ゆるし」は許すものと許されるものを自由にする。

・「毎日が楽しくない」に対して道元(1200〜1253)。曹洞宗

些事、雑事、凡事こそ悟りに至る修行。日常の行為一つ一つが修行であり、座禅と同じ意味を持つ。例えばしいたけを干すような、他に目的を持たない作業は、日々の目的への連鎖となっている行為を断ち切る、完結した行為である。それは座禅と同じ効果。禅寺で料理や掃除が重視されるのもこのため。何かに役立てるという考え方をやめ、「今、ここ」に徹する。ブッダですね。アリストテレスっぽくもある。日々のありふれた雑事は「動く座禅」である。

・「人生がつらい」に対してハイデガー(1889〜1976)。ハンナ・アーレントと恋仲だったほう。

人生における夢が叶う、成功するといった他の可能性と比べて、「自分が死ぬ」という確実な可能性。本気で自分の死を捉えたとき、一回限りのかけがえのない自分という、存在のあるべき姿が立ち上がる。死とは追い越すことも乗り越えることもできない可能性であり、それが迫り続けていることを自覚した人に本当の人生が開かれる。←これ最近めっちゃ考える。多分出産が迫ってきてるからだと思う。生きられる残り時間について思いを馳せる。

スタンフォード大学の研究では、人は残り時間を本気で考えるようになると、人生レベルで満足できることだけにエネルギーを注ぎ、ネガティブな情報よりポジティブな情報に目を向けるようになる。平たく言うと年を取るほど幸せになる。カーネマン(ファストアンドスロー)のプロスペクト理論にも疑義をとなえており、高齢者は損を避けようとする意識が強くなくなる。

 

気に入ったところだけまとめるつもりがめっちゃ長くなった。いや〜オススメです。面白かった。