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ちょっと長めの独り言

愛の最果て(亀山郁夫「『悪霊』神になりたかった男」感想)

読みました。こちらもまた米原万里の書評シリーズ。亀山郁夫ドストエフスキー「悪霊」を題材に学生へ授業をした際の書き起こし。本当にめちゃめちゃ面白かった…。
以下感想です。


ドストエフスキー「悪霊」は大学生のころに読んで「性格の悪い女が出てくるな〜!主人公胸くそ悪いヤツだな〜!最高!」みたいな感想だったんですけど、今回この本では「悪霊」の中の「告白」について取り上げている。特にマトリョーシャとスタヴローギンの関係について力を入れて解説されている。
昔の名作系の小説って自分一人の力では読みとけない部分も多いよね。私はこの亀山郁夫の解説を読んで、今まで「悪霊」の表面しかなぞることが出来ていなかったんだなと思った。

まず、冒頭で「告白」の章の抜粋。これがとてもありがたくて、その後の亀山郁夫の解説を読んで改めて本文を読み返すことが出来る。彼の解説により、初読では見えてなかった景色が見えてくる。ひとつの物語を、亀山郁夫に教えられた角度から見てみると、全然違う姿が見えてくるんですよ。なんか、そういうのって、すごくないですか。本、読んでてよかったな〜って思う瞬間。

ドストエフスキーは読者に求めることが多すぎると思う。普通に読んでも足の悪いマリヤがホーリーフール≒神様に近い者の象徴であり、神になりたいスタヴローギンにとってはライバルであるとか、スタヴローギンがマリヤの住む家に火をつけて焼死させることは神を殺すことに等しいとか、普通にストーリー追っててもわかんないんだよ!亀山郁夫の解説で初めてわかったよ!

特に最高だったのがさ〜、マトリョーシャとスタヴローギンの関係ですよ。普通に読んだらスタヴローギンが陵辱胸クソやろうじゃないですか。でも亀山郁夫は「この憎しみこそが愛である」って言うんですよね。マトリョーシャを殺したいとまで願う憎しみ、相手を殺すことが出来なければ、自分は生きられない。
その視点で「告白」を読むと、「夜、私は部屋にいて、彼女を憎むあまりに殺してしまおうと決意するほどだった。私の憎しみは主として彼女の微笑みを思い出す時に生じた。」とか「(彼女は)にぶい好奇心を浮かべて私を見つめていた。私はソファの端に腰掛けたまま身動きをせず、彼女を見返した。そこへ不意にまた憎しみを感じた。」とかが全然違う意味となって浮かび上がってくるんですよ。
「(彼女の幻影は)おのずから現れるというより、私自身が呼び起こすのだが、とても共に過ごすことができるはずもないのに、呼び起こさずにはすまないのだ。ああ、たとえ幻覚にでも、いつか彼女を現に見ることができたら。」「新しい犯罪を犯してみたいところで、何ら私をマトリョーシャから解き放ってはくれなかったろう。」とかさ…もうさ…。

スタヴローギンはマトリョーシャとの関係において、「神」ではいられなかったんですよね。性の現場で「神」であるためには、一方的な暴力と破壊か、徹底した無関心である必要があった。けれどスタヴローギンは、マトリョーシャに対してはそのどちらでもなく、「生身」の「一対一」の関係だった。一人の人間としての関係だった。

だから、私はマトリョーシャの「神様を殺してしまった」っていうのはスタヴローギンのことを指してると思ってたんですよね。「神」であったはずのスタヴローギンと、生身の関係を結んでしまった。彼を地上の世界に引きずり下ろしてしまった。
亀山郁夫の解釈は違っているんですけど、私はこっちを推したい…。

スタヴローギンは最後、首を吊って死ぬんですけど、マトリョーシャと同じ死に方を選んだんですよね。聖母の大地に触れることなく、狭くて急な階段を上がった先にある屋根裏部屋で死んだ、その意味。
スタヴローギンとマトリョーシャが天国で幸せな再会をしているとはとてもじゃないけど思えない。でも、マトリョーシャにとってスタヴローギンが特別であったのと同じように、スタヴローギンにとってマトリョーシャは唯一の存在であったのだろうと思うんですよ。
それ、世間では「運命の人」って呼ぶんじゃないでしょうか。


亀山郁夫は高校生向けの授業でこのテーマ選んだのすごくないですか。少女陵辱、被害者の自殺、ルソー「告白」から引っ張ってきた自慰表現、マトリョーシャのM体質について。高校生、どんな顔でこの授業聞いていたんだろうな…。
最後の911の自身の体験も、ここまで赤裸々に高校生に語れるのすごいと思う。

とにかくめちゃめちゃ面白かった。「『悪霊』面白くなかったわ〜」って人に特におすすめしたい。